📖レポートなど

ANE‐SUNと岩手ウィメンズネット

                     

2017年6月に宮古市議会議員となった私は、早速、沿岸市町村の全女性議員に対して、東日本大震災からの復興に女性の視点を取り入れるために連携していこうと呼び掛けました。そして同年10月28日、趣旨に賛同する有志9名で「岩手県沿岸市町村女性議員ネットワーク」(愛称ANE‐SUN)を設立しました。ANE‐SUNは「アネサン」と読み、方言の「姉さん」と地域で必要とされる「太陽」の様な存在を目指すという思いが込められています。
設立総会にはたくさんの御来賓が出席して下さり、山本宮古市長、前川宮古市議会議長(当時)、石原田野畑村長が祝辞を述べてくださいました。
御来賓と共に記念撮影
また、鈴木五輪大臣(当時)、戸羽陸前高田市長、戸田大船渡市長、平野大槌町長が祝電を、小田野田村長、柾屋普代村長がメッセージを寄せてくださいました。
須賀原チエ子宮古市議(当時)
を代表に選出し今後の計画等が承認されました。私は、言い出しっぺとして事務局を担当。政党などの枠を超えて、岩手県沿岸の復興と振興・発展の為に政策提言能力を高めていこうとする女性議員の集まりとして出発しました。
同日、設立記念講演会とシンポジウムが行われ約70人の参加者が復興後の沿岸振興を考えました。
講演会では、前仙台市長の奥山恵美子氏が「未来への教訓~復興から学んだこと~」と題してお話し下さいました。ユーモアを交えて、仙台市の復興に取り組んだ貴重な体験を中心に、非常時におけるリーダーの心構えと行動について、また、復興事業はその場しのぎでなく将来展望も見据えたものでなければならないこと等を話されました。
シンポジウムの様子
シンポジウムは「復興後の沿岸振興を考える」というテーマで私     がコーディネーターを務め、大棒レオ子氏(田老ゆいとり工房代表)、花坂康太郎氏(宮古商工会議所会頭)、末村祐子氏(大阪経済大学客員教授)の3名のパネリストが復興に取り組んできた経験やこれからの展望を話されました。会場との意見交換も盛り上がり、最後に奥山氏が助言者として「外部人材活用の重要性」を強調されました。
 ANE-SUNは、定期的な情報交換や地域住民との座談会、市民参加のシンポジウムなどを重ね、沿岸の復興や地域課題の解決に取り組みました。
そして、約2年間のANE‐SUNの活動で、連携することの重要性を確信した私たちは、この取り組みを岩手県全体に広げることにしました。そして、県内すべての女性議員に呼びかけた結果、県議会議員の7名すべての女性議員も入会し、新たに20名の仲間が加わりました。
2019年11月11日、会員数29名で名前も新たに「岩手ウィメンズネット」を立ち上げました。県内の女性議員有志が連携して女性や若者の政治参加を推進することや、女性活躍の場を広げる活動を展開しています。ANE-SUNは岩手ウイメンズネットの沿岸支部として存続し、独自の支部活動を継続していくこととなりました。
設立総会では「岩手ウィメンズネット共同宣言2019」として、「岩手県内女性議員有志は、連携して岩手の発展と振興に寄与し、女性の地位向上及び活躍の場の拡大を目的として本会を立ち上げました。私たちは多様性を尊重し、誰もが自分らしく生き生きと暮らせ、社会的弱者に寄りそう岩手を目指して活動します」を、全員で読み上げて決意を新たにしました。私は改めて事務局長を仰せつかりました。
 設立総会後の記念講演では東京大学名誉教授上野千鶴子氏が「どんな社会が欲しいのか?」と題して、我が国の女性のおかれた現状を鋭く分析。一般参加者も含めて約100名の聴衆が耳を傾けました。
講師の上野千鶴子氏を囲んで
 岩手ウイメンズネットは、初年度、「ひとり親家庭の支援」をテーマに取り組みました。新型コロナ感染症
拡大の影響で、活動にも大きな制約
がありますが、コロナ禍の中で困窮を極める県内のひとり親家庭の実態調査や、国・自治体への提言・要望活動などを進めてきました。
今年1月には、設立1周年記念事業として、NPOしんぐるまざーず・ふぉーらむ理事長の赤石千衣子氏によるオンライン講演会を実施して、全国のひとり親家庭の実態を学びました。
当会は現在会員31名で活動しています。県内では女性議員が0か、居ても一人だけという自治体も多く見られます。孤軍奮闘という言葉もありますが大変なことが多いのも事実です。けれども、お互いに支えあい学びあうことで、力や勇気が湧いてくることを私たちは今実感しています。
女性に限らず、若い人や障害のある方など、多様な人々が政策決定の場に参加しやすい社会が求められています。そのような地域社会を目指し、弱い立場に居られる方々に寄り添う岩手県を目指してこれからも連携して活動していきたいと考えています。(1894字)
2020年11月30日(いわて未来研寄稿文)

フィンランドに学ぶ教育改革

「教育は国家百年の大計」と呼ばれるように、教育改革には時間がかかります。思い付
きの改革ではなく、日本という国のあるべき姿を描いて、それに向けた改革を進めていく
ことが必要です。
そこで参考にしたいのが、PISA(OECD が 3 年に 1 回実施する学習到達度調査)のテス
トで世界のトップクラスを維持し続けているフィンランドの教育です。私はお茶の水女子
大学大学院の研究生として小中一貫教育のマネジメントを研究する中で、国全体で小中一
貫教育を取り入れているフィンランドの教育に関心を持ち、昨年の8月末から9月初めに
かけて十数名の大学生と一緒に、フィンランド教育視察旅行に参加しました。そして、フ
ィンランドの教育が世界から注目されている理由が少しわかったような気がしました。
日本では、学力低下を理由に授業時間を増やす方向で改革が進められていますが、フィ
ンランドは日本より授業時間がかなり少ないのです。その代りといっては語弊があるかも
しれませんが、教師は全員大学で修士号を取得していて、とても優秀で自信にあふれ、落
ちこぼれる子どもを出さないことを誇りにしています。
また、国家も行政も親も教師を信頼し教育現場に口出ししません。日本の文部科学省に
当たるフィンランドの教育省は、主に教育環境の整備を行い、カリキュラム作りは国家教
育委員会という専門家集団が行いますが、そのカリキュラムにしても大変大雑把なもので、
多くのことが現場の教師の裁量にゆだねられています。また、かつてあった教科書検定は
改革の中で廃止され、教科書は各出版社が独自に作成します。どの教科書を採用するかは
各学校あるいは個々の教師に任されています。
教師は授業に専念し、日本のクラブ活動の様な取り組みは、ほとんどが地域の自主サー
クルに任されています。進路指導等も教師は関知せず、本人と家族が相談して決めます。
ちなみに、フィンランドでは幼児教育から大学院まで、教育は全て無償で、学びたい人
がいつでもどこででも学べるようになっています。教育機関に払う費用の97%を公的負
担でまかなっているのです。(日本は教育機関に対する公費支出の割合がとても低いことで
知られており、OECD の主要国の中では最下位レベルです)
カリキュラムは文部科学省が細かく定め、教師の勤務評定を厳しくし、生徒は成績順に
クラス分けをするというような、どこかの国の最近の動向と真逆の実践により学力世界一
を達成したのがフィンランドなのです。
フィンランド人と結婚し、現在は3人の男の子を育てている日本人女性とお話すること
ができました。「日本にいたら、自分も周囲に流されて子供を塾に通わせていたかもしれな
い。フィンランドに来て本当に良かった」とおっしゃっておられたのがとても印象的でし
た。
(1200 文字)

普代村の四季と子どもたち

三陸鉄道に乗って 
 岩手県普代村の教育委員会に教育長として私が赴任したのは平成 18 年4月のことです。私
 は普代村の南にある宮古市の生まれで、それまで普代村を訪れたことも無く、知り合いもい
 なかったのですが、当時の村長さんに声をかけていただきました。それまで、同じく岩手県
 の滝沢村(現滝沢市)で、2 年間助役の経験があったものの、教育行政は初めてで、不安が
 無かったといえば嘘になるでしょう。けれども自宅のある宮古市から 55 分、第三セクターの
 三陸鉄道に乗って普代村に通勤する道を私は選んだのです。 
 普代村の人々と子供たちは、そんな私を実に暖かく優しく迎えてくださったのです。そん
 な村の人たちと子供たちのために、自分に出来ることは全部やろうと決心して無我夢中で 2
 期 8 年間を過ごしました。 
 豊かな自然の中で、心優しい村の人々と、素直な子どもたちと過ごした 8 年間の思いでは
 私の生涯の宝物です。 
 春 
  平成 18 年 4 月 3 日、普代村教育委員会初出勤の日、私は朝 8 時 5 分に三陸鉄道の普代駅に
 降り立ちました。どんな人に出会えるのだろう、どんな仕事が待っているのだろうと、ドキ
 ドキそわそわしながら、ホームの階段を下り、駅前広場を横切って道路に出ました。役場は
 もうすぐそこに見えています。歩いていると、高齢の女性とすれ違いました。もちろん初対
 面ですが、「おはよござんす」と声をかけてくれます。「おはようございます」と答えながら、
 暖かい気持ちになってきます。道路沿いの家の前で掃除をしている女性がいたのでこちらか
 ら「おはようございます」と声をかけると振り向いて満面の笑顔で挨拶を返してくれました。 
  優しい村・・それが私の普代村に対する第一印象でした。 
  その後、あいさつを兼ねて村内唯一の中学校と 4 つの小学校を回った時には、人懐こい子
 どもたちが周囲に集まって、ニコニコと声をかけてくれました。子どもたちは大人を見て、
 ちゃんと育っているのだなと感心しました。 
  教育委員会も春は大忙し。入学式や、運動会等学校に行く機会が多いのです。小規模校が
 多いので入学する児童が一人だけという小学校もありました。2009 年には年度末の学校統合
 を控えて、二つの小学校で最後の入学式が行われました。黒崎小学校ではたった一人の新入
 生でした。一人の新入生に迎える在校生は 11 人。児童に付き添うご両親。見守る来賓の数は
 十数名。そんな中で子ども達は元気にはつらつとして、見守る大人もニコニコと誰もが笑顔
 です。 
  運動会の季節は、熊が冬眠から覚める季節です。あちらこちらで熊の目撃情報や畑を荒ら
 されたなどの被害情報が入ってきます。小学生は皆熊鈴をランドセルに付けて登下校します。 
 目撃情報は村の防災無線で放送され、登下校を見守るボランティアの方々が、付き添って歩
 いてくださいます。運動会前日には学校近くで大量の爆竹を鳴らし、数日間は熊が校庭を横
 切りませんようにと願います。住民と役場が一体となった熊対策により、毎年、運動会は無
 事に行われるのです。 
  運動会といえば、住民と学校が一緒になって盛り上がる行事の代表です。今は閉校してし
 まった黒崎小学校では、地域の大人が出場する「もっきりレース」があります。障害物競走の一つで、ビール等をストローで飲み干してからゴールに向かうというものです。都会なら
 親からクレームがつきかねない競技ですが、黒崎小学校の名物競技として観客の笑いを誘っ
 ていました。 
 夏 
  普代村で一番好きな季節は初夏でした。田に水が入り、山々の緑が青空に映えてとても美
 しい季節です。毎日教育長室の窓から美しい緑に癒されていました。またこの季節、三陸北
 部沿岸地域特有の「やませ」が発生します。海からの冷たい東風に乗って、白い霧状の靄が
 陸に流れてくるのです。気温がぐっと下がり、冷害の元凶となり、農家にとっては厳しい自
 然現象ですが、村全体が乳白色の幽玄の世界となり、美しさに感動してしまいます。「やませ」
 が出ると、朝宮古駅を出発した時と比べて普代駅に降りる時の気温が 3~4 度も下がっている
 こともしばしばで、この時期、朝着て出るものに迷います。 
  初夏から夏にかけては、チョウセンアカシジミの観察の時期でもあります。チョウセンア
 カシジミはその名が示す通り、朝鮮半島を原産とする、シジミチョウ科に属する小型の蝶で、
 羽を開いた時の大きさは 3.5~4センチ程、美しいオレンジ色の蝶です。日本では岩手・山
 形・新潟3県の限られた地域でのみ生息が観察されています。「環境庁編日本版レッドデータ
 ブック」に希少種として記載され「幻の蝶」と呼ばれているこの蝶、普代村で生息が確認さ
 れ 1984 年に村の天然記念物に指定されました。この蝶の産卵数調査や成蝶観察を毎年村内の
 小学生が行っていますが、その観察方法や、保護について子どもたちに指導して下さるのは
 地域の大人の方々です。チョウセンアカシジミの幼虫はトネリコという木の葉だけを食べて
 育ちますので、トネリコの植樹や、周辺の下草の刈り取りなども子どもと大人が一緒に取り
 組みます。村民皆で蝶を守り、環境を守っているのです。 
  中学生の夏の楽しみは手作りカヌーの乗船体験でしょうか。中学校の PTA のお父さんたち
 が、手作りカヌーの作り方を中学生に指導し、一緒に作り、完成させて、湖で試乗体験を行
 います。一時中学校が荒れていた時代があり、そのころからお父さん方の学校への関わりの
 大切さが認識されてきたのです。今ではすっかり落ち着いて学習に励んでいる中学校ですが、
 地域の方々が学校に関わり続ける伝統は継承されています。 
 秋 
  夏が終わるとみんなが待っていたふだい祭りです。村最大の行事といっても過言ではあり
 ません。9 月上旬の 3 日間、村はお祭り一色に染まります。春早くから、村の人たちがお年
 寄りの方々のご指導を受けながら手作り山車の制作に取り組んできました。子ども達は町内
 の大人の人から太鼓のたたき方や笛の吹き方を教えてもらって、毎晩のように練習してきま
 した。勇壮な武者絵巻を表現した大きな山車の上にたくさんの小太鼓を打つ子どもたちが乗
 っています。大きな太鼓は若い衆がもろ肌脱いで汗をかきながらたたきます。どの顔も晴れ
 がましさと照れくささに輝いています。山車を引く行列の前では、普代中学校の神楽同好会
 が「中野流鵜鳥七頭舞」を舞っています。この舞は、村にある鵜鳥神社に伝わる鵜鳥神楽の
 流れを汲むもので、神楽の舞手による指導が長年にわたって受け継がれています。小学校時
 代には、神楽の中で比較的易しい演目を指導してもらい、村の郷土芸能発表会などで披露し
 てきました。足の運びなどの神楽の基本を身に付けた子供たちは、中学校に進んで、「七頭舞」
 のハードな動きをマスターすることができます。普代中学校の「七頭舞」は村の人たちにと
 って「宝物」と呼べるほど質の高いもので、東京や仙台での公演、県内各地のイベントでの
 披露は、多くの人たちに感動を与えています。10 月に行われるふだい海産まつりには、遠くから、この「七頭舞」を見るのを楽しみにして訪れるお客様も多いのです。子ども達もこの
 舞をとても誇りに思っていて、お祭りの間、普代中学校の卒業生が飛び入りで参加すること
 もしばしばです。 
  実りの秋。初夏に農家の方のご指導で小学生が種まきをしたソバの刈り取りと脱穀を大人
 も子供も一緒に楽しく行います。収穫したソバの実を使って、11 月に行われる村の文化祭で
 は、老人クラブの皆さんのご指導でそば打ちが行われます。打ち立てのソバを毎年楽しみに
 会場を訪れる村民も多いのです。山の実りが少ないと、翌春には熊や猿、カモシカなどが食
 料を求めて里に下りてきて、畑を荒らしたりしますから、穏やかで豊かな秋の実りは人にも
 山の動物にも嬉しい秋なのです。 
  秋は学習も読書もはかどる季節ですが。村では「本が大好き普代村」を目指して、ブック
 スタート事業を始めました。乳幼児検診の待ち時間を利用して、村の読み聞かせグループの
 方々が、お母さんと赤ちゃんに「赤ちゃんが最初に出会う絵本」をプレゼントし、読み聞か
 せの実演をして、ご家庭でお母さんに実践してもらうのです。読み聞かせは認定こども園で
 も小学校でも中学校でも行っており、最近ではお父さん方の読み聞かせが増えてきて子ども
 達には大好評です。子どもたちの笑顔が嬉しくて、仕事の合間を縫って読み聞かせに駆けつ
 けてくださる若いお父さんもいます。 
 冬 
 岩手県沿岸は、北国とはいえあまり雪が降らない地域です。2月か3月ごろに1~2度、
 湿った雪が降るくらいで、それが過ぎると春が来ると言われているのです。 
  ですから普代村のお正月は、大抵お天気に恵まれて穏やかに過ぎていきます。漁業を生業
 としている人が多い普代村では、太田名部漁港の「初競り」で新年が始まります。この時に
 沢山の漁があり、値段も良ければ、浜は活気づき、今年も良い年になりそうな予感がするの
 です。 
  そして県内で最も早い、普代村の松の内成人式は、都会では考えられないくらいの新成人
 の高い参加率です。久しぶりに再会した同級生同士、見違えるように着飾って、大人になっ
 た姿を嬉しそうに、照れくさそうに披露し合います。だれもが通る人生の節目ですが、普代
 村の成人式には、しみじみとした温かさがあふれています。村を離れて、仕事に勉強に頑張
 っている若者たちが、ひと時、故郷のぬくもりと、同級生の笑顔に癒されて、元気をもらっ
 て、再び日常に帰って行くのです。新成人より来賓や父兄の数が多いのですが、親もみんな
 顔見知りで、どの子にも「立派になったね」「綺麗になったこと」「頑張ってる?」と声をか
 けてくれます。 
  新年にもう一つ、忘れてならないのは「鵜鳥神楽」の「舞立ち」です。鵜鳥神社で、二人
 の舞人が場を清めた後、権現様(獅子頭)を手にして、豪快な権現舞を披露します。岩手県
 沿岸には「北の鵜鳥、南の黒森」と呼ばれる二つの有名な神楽があります。「鵜鳥」はもちろ
 ん普代村の「鵜鳥神楽」のことで「黒森」とは、宮古市の黒森神社に伝わる神楽です。この
 二つの神楽は毎年交代で、北は久慈市の久喜・小袖地区まで回る「北回り」と、南は釜石市
 白浜・室浜地域まで至る「南回り」の巡業を行って、三陸地方の豊漁と海の安全を祈るので
 す。そのスタートが「舞立ち」です。鵜鳥神社での儀式が終わると、地域の公民館でその年
 最初の公演が行われます。鵜鳥神楽の演目は50以上もあり、そのすべてを1日で行うのは
 不可能ですが、地域の人たちはお酒や食べ物を持ち込んで、夜遅くまで楽しみます。公演の
 最後に観客一人一人の頭を権現様から軽く噛んでもらうと、一年間健康でいられると言われ
 ています。権現様に手を合わせたり、おひねりを渡したりと、神楽衆との楽しい交歓が夜更けまで続きます。子どもたちも冬休みですから、この日ばかりは夜更かししても怒られず、
 楽しい思い出とともに村の文化と誇りを継承していくのです。 
 昆布の仕事が忙しい2月には、早朝から親を手伝う子供もたくさんいます。そんな子は学
 校であくびをしたりしますが、事情を分かっている先生は怒ったりしません。 
 東日本大震災の後 
 東日本大震災の後、のどかで楽しい通勤ライフは一変しました。明治、昭和と大きな津波
 で沢山の犠牲者を出した普代村では、高さ15.5メートルの防潮堤と水門で村を囲みまし
 た。今回の津波は20メートル以上の高さでしたけれど、防潮堤と水門のお陰で勢いが減殺
 され、港や船は壊滅したものの、奇跡的に人的被害は最小限度に抑えることができました。 
 けれども村外の被害は甚大で国道は寸断され、三陸鉄道は不通となり私は通勤することが出
 来なくなりました。最初の半月ほどは役場に泊まり込んで災害対策副本部長として、行方不
 明者の捜索や情報収集などに携わりましたが、通勤が不可能だということが判ったので古い
 村営住宅を借りて単身赴任生活を始めました。ですから最後の3年間は三陸鉄道に乗ること
 ができませんでした。 
  任期満了で退任した翌月、やっと3年ぶりに三陸鉄道北リアス線が復活したのです。時間
 が出来たなら、もう一度三陸鉄道に乗って、懐かしい普代村を訪ねてみたいと思っています。
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